普段の事
 
以前 アメリカ人は 人は失敗する事があるのが 当たり前と考え 
もし失敗したときには こうやってフォローすればいいと
1の手  2の手 3の手の対策をしていると聞いた事がある。
 
日本人の訓練は たるんでいるから失敗するのだ〜ぁ〜
緊張が足りない〜ぃ とビンタくわされ ののしられ 絶対失敗の許されぬ中で
訓練された。
 
今になって思えば あんな事に良く文句も言わずに従ったな〜と思う
今朝  食事の時に 父が ミルクのコップを倒して テーブルの上がミルク色に染まった
以前の僕だったら きっとののしっていたに違いない
しかし 年寄りの介護に慣れてきたせいか 失敗する事も想定内に入ってしまった。
 
今また 新しい事業部の発足にあたって 以前の寸分違わぬ計画設定は無くなった
流れに任せればいい と思うようになった  備わらない欲を追う気は無くなった。
例えばいつも努力している人がいたとする  その人は 僕のように努力すれば不可能が可能になると言うかも知れない
しかし 考えてみれば  その人には 努力をすると言う能力が備わっていただけで無い能力を訓練したものではない。 
逆にその人に何もせずに じっとしてて と言ったらフラストレーションを起こすだろう。
最近 月に高額の報酬を手に入れる事に専念している 方がみえるが その人に徳が備わっていなかったら
砂上の楼閣になってしまう。本人は努力すればと、、、 思っているだろうけど
ある人がお寺を建てたいと言った  相談された老師は  あなたにその御徳が有りますか? と聞いたそうだ
お金は有っても人間力が無い それでは人氣が上がらず維持出来て行かない
以前出雲に行った時 時の隆盛を極めた実業家が神社を寄進した  その後倒産したら その神社の
御神体の神器まで盗まれ 空っぽの建物だけが残っていた。吹き抜ける風の空しかった事を覚えている
人徳 が備わらないと誰の協力も得る事無く線香花火のように空しく消えて行く
 
真に成功したくば 己を磨けと 僕には聞こえてくる
これも人によって違う言葉が来ることもあるだろう  それは又それでよし
人はだませても神様は知っている  なのである